

中世の駈込寺(かけこみでら)は、追われた人を救済する聖域(アジール)でした。
草履の片方でも塀の中へ放り込んだら、もう借金取りも追いかけることを諦める。
そういう不文律が成り立っていたそうです。
もくじ
駆け込んできた人たちは、庭掃きや床磨き炊事などはしてくれるでしょうが、一般社会には戻れない立場の人たちですから、寺の外からお金を稼いでくることは難しいわけです。
では、駈込寺では、どのようにして彼らを食べさせていたのでしょう。
一説には、その一般社会から隔絶された独自性を利用して、商人たちがまだ世に出したくない茶器や珍しい商品などを預り、倉庫業や高利貸しを営んでいたと。
聖域たる寺が、高利貸しを?
そんな任侠道のような、一見クリーンではない営利活動に勤しんでいて、よいのでしょうか。
一般社会から追われた人を救済するには、社会にまかり通った法秩序の裏をかくことが必要だったと言えるかもしれません。
そもそも仏法は、一般社会の倫理(法律)で救えない人たちを救うものだと、私は思います。
許容しがたいのは、そうした慈善的駈込寺が高利貸しとして機能するのを見知って、“弱者救済が主眼ではないのに”、高利貸しを営む寺が出現したときです。
極悪非道なことをしたわけでもないのに追われる身となり、駈込寺が救済しなければならない人が存在する、ということは、守りきれていない法のほうに綻びがあったということでもあります。
彼らを養うため、(法にふれない範囲の)裏稼業で資金を調達するのは致し方がないこととも考えられます。
しかし、誰も救済していないのに、その方法だけを真似て、「商人たちが世に出したくない茶器などを預かり、それを担保にカネを貸せば、高利で商売がまわる」と考える寺が続出してしまうと、資力が潤沢とはいえない駈込寺に商品を預ける商人がいなくなってしまいます。
いつの時代も、聖的なる活動が、闇スレスレのものによって絶妙のバランスで保たれる状態は、吹けば飛ぶようにはかないもの。
とうとい活動が、ほんとうに黒いものによって呑まれてしまい、長続きしづらいのが、世の常であります。
ギリギリのバランスで聖的なる活動が保たれる瞬間。
それもまた、〝中道〟のひとつといえるのかもしれません。
ところで、いまの時代の駈込寺的な寺の役割といえば、墓を契約した人たちの死後事務、つまり親戚代わりとなって最後を看取ることでしょう。
これまでは、公益法人やNPO法人が看取りの受け皿となることが多かったと思います。
しかし、それらの法人は組織の歴史も浅いので、信頼を得るため、駅前の立派なビルに事務所を構え、電話番を雇用し、多大な家賃と人件費をかけなければなりません。
パンフレットなども、お金をかけて立派に仕上げます。
なかには、人々に貢献することよりも、〝慈善活動をしているということをアピールすること〟のほうに主眼が置かれてしまっているような傾向が見てとれる場合もあります。
ほんとうに死後の事務や看取りの世話を任せられる相手なのかどうか。
見栄えのいいホームページやパンフレット、後援についている大手企業の名前に安心する前に、預けたお金でいったい何をどこまでやってもらえるのか、しっかりと尋ねる知識を身につけておくことが大事です。
中年以降は、お金のことばかり計算するより、「生きるとは?」、「人生とは?」といった、哲学的で、お金にならないことを考えることに挑戦してほしい。
それでこそ、「スマートな隠居」が達成されるという信念を私は持っています。
しかしそれは、私自身がファイナンシャルプランナーとして最低限の知識を得ているから言えることなのかもしれません。
母が思いのほか早く逝き、小学生と幼児を抱えながら看取りました。
相続の小規模宅地の特例のことや、不動産を売買する際の3000万円控除を、土地の名義人が2人なら2人分使えるということを知っていたことは救いでした。
その知識があったからこそ、ある程度の余裕をもって、母が会いたがっている友人を病床に呼んだり、納骨式に呼ぶべき人を確認したりということまで、できたのだと思います。
母の気持ちに沿う看取りができたからこそ、急な別れであってもグリーフを長く引きずることもなく、生きてこられた気がします。
まだ自分の老後には間がある50代のときに、親の看取りと自分の老後資金について、最低限の知識を得ておくことは、大きな心の支えとなります。
制度のことや、細かい計算がおっくうになる前にファイナンスの知識を最低限おさえておくことができてこそ、のちに現実的なお金や制度のことを気にすることなく、「スマートな隠居」に没頭してゆけるのではないでしょうか。
でも、お墓を契約している先がお寺であるなら、そのご住職に親戚代わりとなっていただくほうがずっと安心かもしれません。
お寺は新たに事務所を構えなくても、いつでも電話を受ける準備があります。
その地で何百年も根をはってきたので、立派なパンフレットがなくても信頼するに足ります。
終活という用語がもてはやされた頃、高齢者から何十万~数百万円をお預かりして死後の事務を一手に引き受けると約していた「公益財団法人ライフ協会」は資金がショートして破綻しました。
その数年後、日本のネット検索最大手だったYahooがエンディング関連の企業と終活世代の人々をマッチングしてきた「Yahooエンディング」も、サービス終了しました。
いまは、大手のリーガルファームなどが「代理人サービス」や「死後事務一括サポート」を売り出しています。
しかし、死後事務や看取りは、ケースごと千差万別。定型のやり方で、基本料金を明示し、一手に引き受けることは不可能に近い仕事です。
本来は、同居の親族が、無償で担ってきた役割。
それを、他者(他社)にお願いするならば、金銭契約とガチガチの契約書で丸投げするのではなく、頼む側が元気なうちから地域活動に参加するなどして、世話を頼める人の縁を紡ぐのが本筋ではないでしょうか。
地域社会や同じ志をもつ人々の輪のなかで、それまでのキャリアを活かしてなにがしかの貢献をし、親族に代わる人の縁を築ぎ、自然と互いに看取り看取られる関係を紡いでゆくことこそ、必要とされているのではないかと思います。
お墓のあるお寺のなかで、そうしたサークルをつくれれば、一挙両得です。
すでに法話会や写経会などを定期的に催しているお寺であれば、まずは参加して、茶話会などにも顔を出し、将来同じ寺の墓へ入る予定の人たちとの横のつながりをつくってみましょう。
//Okei Sugre//