寺と法とお金

いいお坊さん、ひどいお坊さん

功利主義がゆるむ潮目

自粛期間に入って、「無常」という言葉を「明けない夜はない」、「やまない雨はない」と同義でつかう僧侶をSNS上でしばしばおみかけします。
それはそれで間違っているわけではありませんが、宗教者がいまおっしゃるべきことは、それなのか? という違和感が残ります。

「無常」とは、悪いことがいつか去る、だから待て、という意味ではない

一般の人がそれを言うのは構いませんが、宗教者は「無常」をもう一歩違う角度からとらえてこそ、存在価値が認められると思うのです。

「無常」はほんらい、なにごとも形をかえずに永続することはない、滅びぬものはない、そういう事実をみつめることをいうはずです。
つまり、「いまは非常事態(=悪)」で、そのうちまたいつもの「変わらぬ日常」が戻ってくる(=善)という見かたは、無常という考えかたから少しはずれています。

宗教者のかたがたにはむしろ、「新型コロナの影響ですべての人が罹患の恐怖にさらされることで、何が変わるのか」に目を向けていただきたいのです。

たとえば人々が、「目の前の利益に目がくらんで、介護が必要な親や病気の家族をなかば迷惑がってきた過去を恥じるようになるだろう」といったことに、逆に価値を見出すような話、苦境だからこそ希望が見えてくるような話が、こと宗教者からは出なければいけないのではないかと思います。
「明けない夜はない」などと「いつかを待つ」話なら、宗教者でなくても、誰にでもできるからです。

死を意識しなくてもよかった2020年初頭までの日常が「善」であり、その状態へ「戻る」ことを期待するようでは、「無常」を正しく伝えているとは思えないのです。なにが善で、なにが悪であるというふうに決めつけたりしないのが、仏教思想ではないでしょうか。

希望のみえる前兆に、導けるのか否か

ノーマライゼーションと言いながら、「ふつう」に満員電車に乗れない人、さまざまな事情で「ふつう」に会社へ来られなくなっている人たちに対し、心の奥底で〝悪〟と決めつけてきた。
そういう〝功利主義的な日常〟が崩れる方向へ、いま潮目が変わりつつあります。

そうであるならば、希望のみえる前兆であると思います。
いまをその前兆へと、導いてゆけるのかどうか。

それこそが、宗教者のかたがたの日々のご発言にかかっていると思います。

新型コロナのある生活

これは非常時なのか、日常なのか

COVID-19による海外主要都市のロックダウンが2週間以上つづき、首都圏ほかも「自粛要請」から1週間以上が経過した。

ワクチンの開発をはじめとする対応策は急ピッチで進められているものの、SARSやMARSのことも考えれば、今後もこうしたある程度の致死率のウイルスの流行はしばしばあるのだろう。

異常気象はすでに常態となっており、天変地異も日常茶飯事。
先進格国のおおかたは、第二次大戦後70年余の平穏を経験し「平和があたりまえ」、病気や死は「ふだんあまり口にすべきでないこと」のようになってきたが、COVID-19による都市封鎖が多くの地域で現実のものとなり、ここへきて急速に、なにが「異常」でなにが「日常」であるのかが、交錯しはじめている。

「一定幅の所得減があった世帯へ30万円支給」、快挙の策となるのか

安倍首相は一昨日、「一定幅以上の所得減があった世帯へ30万円を支給する」と発表した。

それまで、「韓国は10万支給したのに、日本はまだ?」「さっさと10万配れ」とSNSで騒がれていたが、3倍に増額して世間を黙らせる手法にでた。

予算大丈夫なの? と心配する人もいるが、支給されたものは預貯金へまわる余裕もなく生活のために使われるので、自粛が緩和された後の経済効果につながる。経済回復が少しでも早くなれば税収の回復にもつながる。
いわば「いってこい」の支給。
「一定幅からギリギリ漏れた人がかわいそう」、「風俗などの職業で支給されないというのは差別ではないか」などの批判はあるものの、一定の効果は期待できる前向きな施策ではある。

そもそもこの非常事態に、「給料下がったから補填しろ」「仕事ないからカネをくれ」と叫ぶだけでは、国家は破綻してしまう。だって経済的価値を生んでいないのにご飯だけ毎日食べているんだもの。
だからみんな、体力消耗が少ないぶん納豆ご飯とかふりかけご飯でガマンする日を増やしてなんとかしのぎながら、「とうぶん皆が家から出ないときに、何が必要になるのか?」を考えて行動したらいいのである。それが、収入に直結しようとしまいと、「誰かに必要とされること」に着手したらいい。

これも日常、と転換しよう

周囲のお坊さまのなかに、ふだんお寺に人を集めて定例で行ってきた催しを、人を呼ばずに動画配信したり、zoomで坐禅会をしたりする動きが出てきた。

ネット配信の催しや坐禅会では、参加費やお布施はとれないし賽銭箱にも一円も入らない。だからわざわざ慣れないツールを利用してまでそんなことはしたくない、というのがおおかたの発想かもしれない。

でも、やれてしまったお坊さまがたは、自粛で自宅で長くすごす人々のストレス、懸念、精神不安を察知して、〝矢も楯もたまらずに〟気がついたら動画配信をしていたのだ。

それがお金になろうとなるまいと、〝矢も楯もたまらず〟手をさしのべてしまう――それが、市民の納得する宗教者の姿だと思う。

そしてお金にならないことを気にせず新たな取り組みをはじめた僧侶がたは教えてくださった。

「日常」と「非日常」の境目をさっさととっぱらい、マーブル状にかきまぜちゃったほうが、健全にすごせるよ、ということを。

悩み茶屋の、愛すべきお坊さん

東海エリアの、まだ葬送儀礼が重厚に行われている地域にて。
愛すべき知人僧侶の、なんともほのぼのするエピソード。

このお坊さんは、自坊(=ご自身のお寺)から少し離れた僧堂で催しがあるとき、「悩み茶屋」と称し、よろずなんでも相談ができるスペースを随時開設しています。

前回の悩み茶屋で、「(お坊さんと)気軽に話してみませんか」というキャッチフレーズのポスターを掲示しました。

すると後日、自坊を訪れた檀家さんから、
「住職とはふだんから当たり前に気軽に話せてんのに、なんでわざわざあんなことポスターに書くんだ?」
と言われ、ドキリとしたんだそうです。

「“気軽に話しませんか?”と言ってしまうってことは、敷居が高いでしょう? とこちらから言ってるようなもの。そもそも敷居を下げていたら、書く必要のない言葉だった、ということに、言われてみてから気づきました。いやぁ、恥ずかしかったです」

いつも気軽に話せてるじゃないか、と言われたところでホッとして満足するのが普通じゃないかと思うんです。

そこで「恥ずかしかった」と自省なさってしまうところがなんとも愛すべきお坊さま、ではないでしょうか。

イイお坊さんかヒドイお坊さんか、という悩み

私が仏教思想史専攻の学生だったころは、バブル景気まっただ中。見渡せば、高級車で棚経にまわられるお坊さんばかり。
「お釈迦さまの思想がすばらしいのはわかったけれど、この国で、私にできることは何もない」
と直観し、専攻とはまるで関係のない仕事に就きました。
紆余曲折をへて、知人の半数近くが宗教者という、いまの環境にたどり着くのに20年かかりました。

もちろん中道という言葉は理解しているつもりでしたが、善だとか悪だとかと決めつけることに意味はない、ということが心底わかるようになってきたのは、『いいお坊さん ひどいお坊さん』を書いたあとからです。

『いいお坊さん ひどいお坊さん』を読んだあと、「私はいいお坊さんなのかひどいお坊さんなのか、悩んでしまいました」と語るかたが決まって、世間の人が思い描くであろう、“いいお坊さん”だったからです。

つまり、「自分がひどいお坊さんなはずはない」、と内心で納得して悩まないお坊さんより、「いいお坊さんなのか、ひどいお坊さんなのか、悩んでしまいました」というお坊さんのほうが、相対的にみていいお坊さんである場合が多いんです。

中道というのは悩み続けることなんだなぁ、と、思う次第です。

僧侶は飲酒肉食していいのか?

「僧侶なのに酒を飲むなんて、もってのほかだ」
「焼肉店にいたら坊さんの集団が入ってきて、まずはビールで乾杯。その後、肉を大量にガツガツ召し上がっていた」

……と揶揄する声を多く聞きます。

仏教徒はベジタリアンでなければならない、という思い込みは、どこから来るのでしょう?
不殺生の教えはたしかにありますが、布施によっていただいた肉は食べてよいとされています。

仏教以上に不殺生を徹底するジャイナ教徒は、虫を殺さないようマスクをして外出するとか、外出すると小動物をひき殺してしまうかもしれないから出歩かなくていい小売業や金融業に就いている、と聞きます。

一歩も動かずに(労せずして)商品を右から左へ流して儲けを取るとか利息を取る、というのを、イスラーム銀行が利息を取らないという美談と対応させてみましょう。不殺生本来の目的が生きとし生けるものすべてを尊ぶ平和祈念であるという観点に立ち返れば、いきすぎた不殺生は本末転倒な感じもします。

仏教本来の教えは「中道」。
必要以上に貪り食うことがいけないのであって、節度をもってするのはよいと考えられるのではないでしょうか。

不飲酒戒というのもあるにはあるけれど、南方の暑い地域での飲酒が禁じられるのはわかります。
でも、寒い地域ではどうなのでしょう?
イスラーム教とキリスト教はもとは同じ教えです。暑い地域にひろまったイスラーム教では飲酒を禁じていますが、キリスト教になるとワインをキリストの血と称えます。
そのうえ日本では、酒はお神酒として神にお捧げする文化があります。そもそも神社において酒が製造されていたわけで、八百万の神の1つとして仏教が受け容れられるなかで、飲酒も許容するのは自然なことだったように思われますが、いかがでしょうか。