寺と法とお金

裏返してみる練習

ゆるせないこと。腹のたつこと。なにが善でなにが悪なのか? そんなことを半世紀かんがえていたら、裏と表がひっくり返っちゃいました。

ハウスとホーム

生活困窮者の施設をつくろうとして反対運動に遭遇した話を、昨年、ある九州の牧師さんの講演で聞きました。
「歴史のなかで、路上生活者はいつでも被害者であり、加害者であったことなどないのに」という話が記憶に残っています。
たしかに、中高生が路上生活者に火をつけた事件はありましたが、路上生活者が人に危害を加えた事件を知りません。
また、火をつけられた路上生活者は犯人の中高生を憐れんで言ったそうです。
「あいつらにはハウスはあるが、ホームがねえんだな。俺らにはハウスはねえが、ホーム(仲間)はある」と。

目に見える家=ハウスがあるのとないのと。
目には見えない心の家=ホームがあるのとないのと。
どちらがよりシンドイのかといえば、“目に見えない家”=ホームを喪ったほう、ではないでしょうか。

「ひとさまのことをこんなに気にできる私」に満悦したい、つまり自己肯定感が底をついている危機状態だったりする。

//Okei Sugre//

抑圧された人からみれば

善がまかり通っていることが苦痛だったりもする。

つまり、さまざまなバックグラウンドの人がいる以上、「あらゆる人にとって善きこと」というのはないに等しい。

◆「デスノート」、エルの台詞「ライト。光だけの世界ですか」より

//Okei Sugre//

ひとつの善が、「そうでなかった場合」を否定してしまう

看取りを描いたドキュメンタリー映画「いきたひ」を観ました。
「生」という字の最後の1画が、「死」という字の始めの1画に重ねられ、「生」と「タヒ」がつながった造字を「いきたひ」と読み、「生きたい」「逝きたい」「(あの世へ、また至福へ)行きたい」など、観る人それぞれに想像できるタイトルはすばらしいと思いました。 Continue reading

腫れ物にさわるよりも、裏返せ!

昨日の午後、長女の進学した都立高校の入学式でした。
入学してくる生徒の7割は不登校歴があるという、少し変わった学校です。配られたプリントにあった、「本校の生徒の多くは、嫌なことが人よりはるかに『いやに思えてしまう』敏感さを持ち」という言葉に、泣けました。

人よりはるかにいやに思えてしまう“敏感さ”……

これぞ、世間のものの見方から「裏返してみる」好例ですね。 Continue reading

あるのにない、を教えてくれた人

“裏返してみる練習”を私がするようになったのは、自著のタイトルにたまたま版元が『いいお坊さん ひどいお坊さん』などという予期しないフレーズをもってきてくれて以来だと思っていたのですが、違いました。

かれこれ四半世紀も前、演劇ライターだったころ。
ナイロン100℃の劇作・演出・主宰=ケラリーノ・サンドロヴィッチ(KERA)さんに半年くらい密着取材していました。「ナイロン100℃はなぜおもしろいのか?」という謎を解き明かしたかったからです。
笑いのセンスのかけらもない私にKERAさんは、懇切丁寧に笑いのツボとか悲哀について語ってくれました。たとえば…

どこの馬の骨かわからない若造が革靴を頭の上に乗せたとしても、頭のおかしなやつで終わってしまうでしょう。でも、権威のありそうな紳士が革靴を頭の上に乗せていたら、それはシニカルな笑いになるわけ。

おー、なるほど! 「あの人はエライ人だ/紳士だ」と差別化している私たちの潜在意識を、つくる側が笑うからこそ、笑いは生まれるのか等々。いっぱい学ばせてもらいました。稽古が終わったところをつかまえて、毎回2時間近くもこんな話を聞きだされていたKERAさんにしてみれば、相当もどかしかったことでしょうね。

そしてできあがった寄稿文のタイトルが、「あるのにない」。

そうでした…
主張がありそうで、ない。
なさそうで、じつはものすごく伝わる。
その表裏一体さ加減についてずっと考えていた半年余りでした。
で、「ある」と「ない」のハザマがあそこにもあった、ここにもあった… と発見していくと、両極を行ったり来たりする頻度や振れ幅がどんどんエスカレートしていくんです。

それは、「悟った!」と思い込んだ瞬間、多くの人が、「自分は悟っていない人たちと違う!」という“差別”を抱いてしまうがゆえに、垣間見えた「サトリ(=差取り)」の世界から奈落へ落とされていくのと同じであったり。

笑わせる側が最初に潜在意識を笑っている、ということは結局、ライプニッツのモナド論なんじゃないかと思えたり。

どっちが主で、どっちが客なのか。
差が、取れたのか取れなかったのか。
そのハザマを何万回も往き来すること。そして、その往き来がコイルみたいに連なって、螺旋状に加速しながらどんどんエスカレートしていく。
生身がある限り、完全に差(を感じること)が取れきってしまうことはない。
なぜなら、お腹がすけばシンドイし、あちこち切られたら誰だって痛いから。

だけど、とどまることなく加速して、ずっと「ある」と「ない」の間を回転しつづけること。それが、生身ある間にできる究極の差取り(差別の観点にとどまらない)なんじゃないか。

つまり、「ある」と「ない」の間をずーーーっと、往き来し続けなくちゃいけない。

そんなことを考えた半年間のことを、いまになってふと思い出したのでした。