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散骨

ひとつの善が、「そうでなかった場合」を否定してしまう

看取りを描いたドキュメンタリー映画「いきたひ」を観ました。
「生」という字の最後の1画が、「死」という字の始めの1画に重ねられ、「生」と「タヒ」がつながった造字を「いきたひ」と読み、「生きたい」「逝きたい」「(あの世へ、また至福へ)行きたい」など、観る人それぞれに想像できるタイトルはすばらしいと思いました。 Continue reading

電車の網棚に遺骨を置いていくか、5万円で便乗散骨するか

主宰している任意団体ひとなみで、散骨についてお坊さんや葬儀関係者と話したことがあります。

その座談会で、真言宗豊山派のM僧侶が、

「昔は、埋葬するお金がない人はよく、電車の網棚に骨壺を置いてきたじゃない? 5万円で便乗散骨(=親族は乗船せず、誰かが散骨するクルーザーに遺骨だけを乗せて撒いてもらってくること)するのと、網棚に置いてきちゃうのとだったら、どっちがいい(あるいはひどい)方法なんだろう?」

という命題を出してくれました。

ふつうに考えたら、故意に遺骨を置き忘れて遺失物とすれば鉄道会社に迷惑がかかりますから、そのほうがヒドイことです。でも、いろいろ話した結果、「便乗散骨のほうがマズイかも」という結論になりました。

なぜなら、「便乗散骨は、5万円払って業者にお願いしたので、誰にも迷惑かけてない、というスッキリ感がある。一歩ひいてみたら、ただの“処理”で、なんの供養にもなっていないのに。だけど網棚に置いてきたら罪悪感がずっと残るから、ことあるごと心のなかで故人に申し訳ない、申し訳ない、って言い続けることになる。これはある意味、供養だよね」と。

社会的に(生きている人にたいして、目に見える形での)迷惑をかけるかかけないか、でみれば便乗散骨がマトモ。しかし、宗教的な(目に見えない世界も含めての、死者への思いやりや恩義を含めた)観点でみれば、便乗散骨は網棚への置き去りよりヒドイ、という話になるようです。

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