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サトリ

欲しいという気持ちを手放したとたんに

欲しいと思っている間はいっこうに手に入らず、手放した瞬間に手に入ることは多い。

職人の技術しかり。
芸能の花しかり。
いのちそのものも。

ワタクシゴト(自力)ではどうにもならないと“明らめ”なければ手に入れることは難しい。

//Okei Sugre//

あるのにない、を教えてくれた人

“裏返してみる練習”を私がするようになったのは、自著のタイトルにたまたま版元が『いいお坊さん ひどいお坊さん』などという予期しないフレーズをもってきてくれて以来だと思っていたのですが、違いました。

かれこれ四半世紀も前、演劇ライターだったころ。
ナイロン100℃の劇作・演出・主宰=ケラリーノ・サンドロヴィッチ(KERA)さんに半年くらい密着取材していました。「ナイロン100℃はなぜおもしろいのか?」という謎を解き明かしたかったからです。
笑いのセンスのかけらもない私にKERAさんは、懇切丁寧に笑いのツボとか悲哀について語ってくれました。たとえば…

どこの馬の骨かわからない若造が革靴を頭の上に乗せたとしても、頭のおかしなやつで終わってしまうでしょう。でも、権威のありそうな紳士が革靴を頭の上に乗せていたら、それはシニカルな笑いになるわけ。

おー、なるほど! 「あの人はエライ人だ/紳士だ」と差別化している私たちの潜在意識を、つくる側が笑うからこそ、笑いは生まれるのか等々。いっぱい学ばせてもらいました。稽古が終わったところをつかまえて、毎回2時間近くもこんな話を聞きだされていたKERAさんにしてみれば、相当もどかしかったことでしょうね。

そしてできあがった寄稿文のタイトルが、「あるのにない」。

そうでした…
主張がありそうで、ない。
なさそうで、じつはものすごく伝わる。
その表裏一体さ加減についてずっと考えていた半年余りでした。
で、「ある」と「ない」のハザマがあそこにもあった、ここにもあった… と発見していくと、両極を行ったり来たりする頻度や振れ幅がどんどんエスカレートしていくんです。

それは、「悟った!」と思い込んだ瞬間、多くの人が、「自分は悟っていない人たちと違う!」という“差別”を抱いてしまうがゆえに、垣間見えた「サトリ(=差取り)」の世界から奈落へ落とされていくのと同じであったり。

笑わせる側が最初に潜在意識を笑っている、ということは結局、ライプニッツのモナド論なんじゃないかと思えたり。

どっちが主で、どっちが客なのか。
差が、取れたのか取れなかったのか。
そのハザマを何万回も往き来すること。そして、その往き来がコイルみたいに連なって、螺旋状に加速しながらどんどんエスカレートしていく。
生身がある限り、完全に差(を感じること)が取れきってしまうことはない。
なぜなら、お腹がすけばシンドイし、あちこち切られたら誰だって痛いから。

だけど、とどまることなく加速して、ずっと「ある」と「ない」の間を回転しつづけること。それが、生身ある間にできる究極の差取り(差別の観点にとどまらない)なんじゃないか。

つまり、「ある」と「ない」の間をずーーーっと、往き来し続けなくちゃいけない。

そんなことを考えた半年間のことを、いまになってふと思い出したのでした。

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