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イエスも語った、“在家の出家”!?

私は、「在家の出家」ということをよく考えます。
具体的にいえば、日本の僧侶は、妻帯しているからひどいお坊さんなのではない、ということです。

妻帯していようといなかろうと、自坊や家族といった“私の周りの閉じられた範囲が第一”で、お釈迦さま教え、正法を伝えることが二の次(職業的手段)でしかなければ、それはひどいお坊さんということになろうかと思います。
裏を返せば、妻帯していてなお、いいお坊さんであるためには、家族を二の次にする必要がある、ということになります。

じつは、在家の出家の問題は、僧侶に限ったことではありません。
最近、学生時代の恩師、岡野昌雄先生の著書、<イエスはなぜわがままなのか> (アスキー新書)
を拝読しました。そのなかで、イエス・キリストも在家の出家(家族の間でも、誰かが誰かに従属したり、誰かが誰かに庇護されるのでなく、個として独立しているべきこと)について語っていらしたことを知りました。

マタイによる福音書の第10章に、「平和ではなく剣を」と題された一節があります。

10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。
10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

イエス・キリストは、一般家庭であっても、神を第一とし、家族のことは二の次にせよとおっしゃっているのです。

四六時中悩み相談を受けている知人僧侶から、「私は、子どもも育ち上がっているから、昼夜を問わずの相談に応じられるのです。まだお子さんが学齢のところでは、なかなかできなくて当然と思います」というような言葉を耳にします。
真に身を粉にするような社会貢献は、養う家族がいなくなってから(=隠居時代)の課題としてもいいかもしれません。

しかし考えてみれば、家族が二の次になりがちなのは、宗教者だけではありません。医師や弁護士など、あかの他人の人生をまるごと背負って助けるような仕事に就いているかたは皆、同様と思います。命にかかわる仕事ではない商売人であっても、顧客第一のような場合には、家族サービスよりも顧客対応を優先する場合があるでしょう。

さて、家庭を二の次にすることは、いけないことなのでしょうか。
親であれ子であれ、夫であれ妻であれ、庇護しあうのは幼児や病身など限られた時期のことでよく、非常時を除いては、独立した個としての自立を認め、信頼していればよいのではないでしょうか。

明日私が事故かなにかでいなくなったとしても、家族が困ることがないだけの精神力を伝え、生きる目標について語らい、そして人の縁を築いていればよいのです。
金銭ではなく、金銭を巡らせる力のほうを伝えておけば、なにも足りないことはない、と思うのです。

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