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裏返してみる練習

ゆるせないこと。腹のたつこと。なにが善でなにが悪なのか? そんなことを半世紀かんがえていたら、裏と表がひっくり返っちゃいました。

あるのにない、を教えてくれた人

“裏返してみる練習”を私がするようになったのは、自著のタイトルにたまたま版元が『いいお坊さん ひどいお坊さん』などという予期しないフレーズをもってきてくれて以来だと思っていたのですが、違いました。

かれこれ四半世紀も前、演劇ライターだったころ。
ナイロン100℃の劇作・演出・主宰=ケラリーノ・サンドロヴィッチ(KERA)さんに半年くらい密着取材していました。「ナイロン100℃はなぜおもしろいのか?」という謎を解き明かしたかったからです。
笑いのセンスのかけらもない私にKERAさんは、懇切丁寧に笑いのツボとか悲哀について語ってくれました。たとえば…

どこの馬の骨かわからない若造が革靴を頭の上に乗せたとしても、頭のおかしなやつで終わってしまうでしょう。でも、権威のありそうな紳士が革靴を頭の上に乗せていたら、それはシニカルな笑いになるわけ。

おー、なるほど! 「あの人はエライ人だ/紳士だ」と差別化している私たちの潜在意識を、つくる側が笑うからこそ、笑いは生まれるのか等々。いっぱい学ばせてもらいました。稽古が終わったところをつかまえて、毎回2時間近くもこんな話を聞きだされていたKERAさんにしてみれば、相当もどかしかったことでしょうね。

そしてできあがった寄稿文のタイトルが、「あるのにない」。

そうでした…
主張がありそうで、ない。
なさそうで、じつはものすごく伝わる。
その表裏一体さ加減についてずっと考えていた半年余りでした。
で、「ある」と「ない」のハザマがあそこにもあった、ここにもあった… と発見していくと、両極を行ったり来たりする頻度や振れ幅がどんどんエスカレートしていくんです。

それは、「悟った!」と思い込んだ瞬間、多くの人が、「自分は悟っていない人たちと違う!」という“差別”を抱いてしまうがゆえに、垣間見えた「サトリ(=差取り)」の世界から奈落へ落とされていくのと同じであったり。

笑わせる側が最初に潜在意識を笑っている、ということは結局、ライプニッツのモナド論なんじゃないかと思えたり。

どっちが主で、どっちが客なのか。
差が、取れたのか取れなかったのか。
そのハザマを何万回も往き来すること。そして、その往き来がコイルみたいに連なって、螺旋状に加速しながらどんどんエスカレートしていく。
生身がある限り、完全に差(を感じること)が取れきってしまうことはない。
なぜなら、お腹がすけばシンドイし、あちこち切られたら誰だって痛いから。

だけど、とどまることなく加速して、ずっと「ある」と「ない」の間を回転しつづけること。それが、生身ある間にできる究極の差取り(差別の観点にとどまらない)なんじゃないか。

つまり、「ある」と「ない」の間をずーーーっと、往き来し続けなくちゃいけない。

そんなことを考えた半年間のことを、いまになってふと思い出したのでした。

悩み茶屋の、愛すべきお坊さん

東海エリアの、まだ葬送儀礼が重厚に行われている地域にて。
愛すべき知人僧侶の、なんともほのぼのするエピソード。

このお坊さんは、自坊(=ご自身のお寺)から少し離れた僧堂で催しがあるとき、「悩み茶屋」と称し、よろずなんでも相談ができるスペースを随時開設しています。

前回の悩み茶屋で、「(お坊さんと)気軽に話してみませんか」というキャッチフレーズのポスターを掲示しました。

すると後日、自坊を訪れた檀家さんから、
「住職とはふだんから当たり前に気軽に話せてんのに、なんでわざわざあんなことポスターに書くんだ?」
と言われ、ドキリとしたんだそうです。

「“気軽に話しませんか?”と言ってしまうってことは、敷居が高いでしょう? とこちらから言ってるようなもの。そもそも敷居を下げていたら、書く必要のない言葉だった、ということに、言われてみてから気づきました。いやぁ、恥ずかしかったです」

いつも気軽に話せてるじゃないか、と言われたところでホッとして満足するのが普通じゃないかと思うんです。

そこで「恥ずかしかった」と自省なさってしまうところがなんとも愛すべきお坊さま、ではないでしょうか。

電車の網棚に遺骨を置いていくか、5万円で便乗散骨するか

主宰している任意団体ひとなみで、散骨についてお坊さんや葬儀関係者と話したことがあります。

その座談会で、真言宗豊山派のM僧侶が、

「昔は、埋葬するお金がない人はよく、電車の網棚に骨壺を置いてきたじゃない? 5万円で便乗散骨(=親族は乗船せず、誰かが散骨するクルーザーに遺骨だけを乗せて撒いてもらってくること)するのと、網棚に置いてきちゃうのとだったら、どっちがいい(あるいはひどい)方法なんだろう?」

という命題を出してくれました。

ふつうに考えたら、故意に遺骨を置き忘れて遺失物とすれば鉄道会社に迷惑がかかりますから、そのほうがヒドイことです。でも、いろいろ話した結果、「便乗散骨のほうがマズイかも」という結論になりました。

なぜなら、「便乗散骨は、5万円払って業者にお願いしたので、誰にも迷惑かけてない、というスッキリ感がある。一歩ひいてみたら、ただの“処理”で、なんの供養にもなっていないのに。だけど網棚に置いてきたら罪悪感がずっと残るから、ことあるごと心のなかで故人に申し訳ない、申し訳ない、って言い続けることになる。これはある意味、供養だよね」と。

社会的に(生きている人にたいして、目に見える形での)迷惑をかけるかかけないか、でみれば便乗散骨がマトモ。しかし、宗教的な(目に見えない世界も含めての、死者への思いやりや恩義を含めた)観点でみれば、便乗散骨は網棚への置き去りよりヒドイ、という話になるようです。

イイお坊さんかヒドイお坊さんか、という悩み

私が仏教思想史専攻の学生だったころは、バブル景気まっただ中。見渡せば、高級車で棚経にまわられるお坊さんばかり。
「お釈迦さまの思想がすばらしいのはわかったけれど、この国で、私にできることは何もない」
と直観し、専攻とはまるで関係のない仕事に就きました。
紆余曲折をへて、知人の半数近くが宗教者という、いまの環境にたどり着くのに20年かかりました。

もちろん中道という言葉は理解しているつもりでしたが、善だとか悪だとかと決めつけることに意味はない、ということが心底わかるようになってきたのは、『いいお坊さん ひどいお坊さん』を書いたあとからです。

『いいお坊さん ひどいお坊さん』を読んだあと、「私はいいお坊さんなのかひどいお坊さんなのか、悩んでしまいました」と語るかたが決まって、世間の人が思い描くであろう、“いいお坊さん”だったからです。

つまり、「自分がひどいお坊さんなはずはない」、と内心で納得して悩まないお坊さんより、「いいお坊さんなのか、ひどいお坊さんなのか、悩んでしまいました」というお坊さんのほうが、相対的にみていいお坊さんである場合が多いんです。

中道というのは悩み続けることなんだなぁ、と、思う次第です。

僧侶は飲酒肉食していいのか?

「僧侶なのに酒を飲むなんて、もってのほかだ」
「焼肉店にいたら坊さんの集団が入ってきて、まずはビールで乾杯。その後、肉を大量にガツガツ召し上がっていた」

……と揶揄する声を多く聞きます。

仏教徒はベジタリアンでなければならない、という思い込みは、どこから来るのでしょう?
不殺生の教えはたしかにありますが、布施によっていただいた肉は食べてよいとされています。

仏教以上に不殺生を徹底するジャイナ教徒は、虫を殺さないようマスクをして外出するとか、外出すると小動物をひき殺してしまうかもしれないから出歩かなくていい小売業や金融業に就いている、と聞きます。

一歩も動かずに(労せずして)商品を右から左へ流して儲けを取るとか利息を取る、というのを、イスラーム銀行が利息を取らないという美談と対応させてみましょう。不殺生本来の目的が生きとし生けるものすべてを尊ぶ平和祈念であるという観点に立ち返れば、いきすぎた不殺生は本末転倒な感じもします。

仏教本来の教えは「中道」。
必要以上に貪り食うことがいけないのであって、節度をもってするのはよいと考えられるのではないでしょうか。

不飲酒戒というのもあるにはあるけれど、南方の暑い地域での飲酒が禁じられるのはわかります。
でも、寒い地域ではどうなのでしょう?
イスラーム教とキリスト教はもとは同じ教えです。暑い地域にひろまったイスラーム教では飲酒を禁じていますが、キリスト教になるとワインをキリストの血と称えます。
そのうえ日本では、酒はお神酒として神にお捧げする文化があります。そもそも神社において酒が製造されていたわけで、八百万の神の1つとして仏教が受け容れられるなかで、飲酒も許容するのは自然なことだったように思われますが、いかがでしょうか。

 

葬儀をするゾウ vs 葬儀不要という人間

専門学校の授業で、葬祭業志望の学生に「葬祭学科を志した理由」を書いてもらいました。

自身が親族の葬儀に参列したことがきっかけになっているという生徒が半数近く。
3・11後、被災地のボランティアに参加し仮設住宅のかたから(葬儀ができなかったなどの)話をうかがううち、葬送儀礼の大切さを知って志したという人もいました。
米国の動物行動学者マーク・ベコフ博士は、「ゾウも葬儀を行う」と発表しました。
いっぽう日本では、「迷惑をかけたくないから散骨でいい」、「直葬でいい」という声が年々急速に高まっています。
動物は、目の前のものが食べられるかどうか、敵かどうかに興味の大半があるが、人間は脳が大きいため「目の前にないことを考えてしまう」といわれます。
噂に翻弄されたり、目標値を掲げられると達成したくなったり。
つまり、「見えないものを信じる力」がある。この点が、動物との大きな違いであると、18世紀の神学者スウェーデンボルイは述べています。
あの世なんてあるわけがない。
死んだら何もなくなるんだから、葬儀にお金をかけるのはばかげている。
そして葬儀は不要と決断する人が増えている現象をみると、動物と人間の立場が逆転する日も遠くないのかも? と思えてきます。
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