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葬儀とお墓で悩んでいるあなたが、決断するまえに知るべきこと

仏像やお寺には癒されるのに、何万円も払っている菩提寺で癒されたことがないのはおかしいと思いませんか?

「心が軽くなる」

「もう悩まなくていい」

「人生は変えられる!」

書店には僧侶が書いた〝こころのお掃除本〟がたくさんあります。

立派なお坊さんがたくさんいらっしゃるのに、身近なところで出会えないのはなぜでしょう。

いいお坊さん ひどいお坊さん (ベスト新書)

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勝 桂子 ベストセラーズ 2011-10-08

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著書『いいお坊さん ひどいお坊さん』(ベスト新書、2011年)から6年。

各地の僧侶研修での意見交換と社寺取材により情報収集を重ね、
日本仏教の特殊性に斬り込んでゆきます。

お寺に世話になるときといえば、通夜・葬儀のほかに、
お彼岸の棚経や、一周忌・三回忌・七回忌……などの回忌法要があります。

ところで皆さんは、

回忌法要もお彼岸も、
外国の仏教には存在しない
日本独自のしきたり

ということをご存じでしたか?

現在の日本仏教は、
仏教以前にあった土着の祖霊観、あの世観や
儒教的な要素などと複雑に絡みあったもの。

カルチャーセンターの写経講座や仏像の写真集には癒されるのに
お寺へ行っても納得のいく平安が得られない理由のひとつが、
ここにあります。

なぜ、僧侶の法話は上滑りするのか?

大学やカルチャーセンターの仏教講座で聴く話は腑に落ちても
菩提寺の和尚さまの法話がなんとなくしっくりこない。
それは、日本仏教が本来の仏教からは
だいぶかけ離れているためです。
海外で、僧侶はサンガをつくって集団生活しますが
日本の大半のお寺は家族経営で
僧籍をもっているのが住職おひとり。

しかも、日本の宗務組織は、僧侶が刑事罰に相当する非道をおこなったときにしか裁こうとせず、仏法にてらして正しいか正しくないかを裁くことが得意ではありません。

構造的に、日本の僧侶は海外の僧侶と較べ、戒を貫くことや質素な暮らしを通すことがしづらくなっているのです。

加えて、法話を聞くわれわれの精神構造もだいぶ変わりました。

およそ40年前、私が子どもだった頃。
学校でひどい目に遭ったり、親にひどく叱られたり、その日に限って誰も遊ぶ相手がなく言いようのない孤独感に見舞われたりしたときには、こころの中でなんとなく手を合わせ、雲のむこうに透けて見えるお天道さまのあたりに向かって、

「神さま、仏さま」

自然とそんなふうに語りかけていました。

田舎の祖父母も、映画やドラマの中でみる中高年も、みんな悩みごとがあるとお仏壇に向かって話しかけていたように思います。
そういう風景を頻繁に目にしてきたから、私たちはそうしてきたのでしょう。

でも、お仏壇のある家が半数に満たないいま、子どもの頃には「神さま、仏さま」と言っていた私たち世代でさえ
人生の壁にぶち当たったとき「神さま、仏さま」と自然と口をついて出る人は稀です。

農耕民族と海の民であった私たちは

お天道さま、仏さま、神さま

と、あらがいようのない力にひれふし感謝するこころを持続してきたからこそ、維新や、焼け野原からの戦後復興をなし遂げてきました。

情報操作やこぎれいな広告で、人為的に売れる・売れないを操作できる時代になりました。

いつしか私たちは、人智を超えたものに感謝しひれふすことを忘れました。

四半世紀のデフレから脱け出せずにいることと、わたしたちが神さま、仏さまと言わなくなったこととは、けして無関係ではありません。

自ら操り自ら勝てるとおごるものは、自力以上の縁起をとりこむことができません。

すべての経営者が、開発者が、労働者が、人智を超えたものに感謝しおごりを棄て去ることができたならば。

ニッポンの闇を切り拓くのは、おごらない叡智を知る聖(ひじり)に、違いないのです。

人生の岐路に立たされたとき、「神さま、仏さま」と言わないならば

いまの人の多くは、苦難にぶつかればカウンセリングへ行くか、
友人に相談するか、あるいは占い師などのスピリチュアルの専門家に助言を求めます。

生老病死苦に遭遇したとき、
口をついて頼る相手が神さまでも仏さまでもないのに、
親密な人を亡くしたときにだけ仏教の教義を聞かされても
ピンとこないのは当然のことなんじゃないでしょうか。

それでも、お寺はいまも人を癒やす

いっぽうで、大切な伴侶や親を亡くしたあと、
「寺社仏閣を訪れるようになった」
「手元供養品の前でお線香をたいて、語りかけたら落ち着いた」
「このトシになって初めて、法事のときの和尚さんの話が心に響くようになった」
といった声を聞くことも少なくありません。

堕落してゆく仏教界だけに責任があるわけじゃない。

超越的な存在に感謝し祈ることをすっかり忘れ、
自分たちの墓を守るイエとして住職に世襲を強いてきた
私たちにも責任の一端はあるのです。

この国には、聖(ひじり)がいます!

この国の僧侶は妻帯し、肉も食べます。
しかしそれは、一般市民と同じ悩み苦しみを
理解しやすいということにもつながります。

他国の僧侶のように特別待遇を受けたりしないので
災害のあった地域には、作務衣で赴き、
炊き出しをし、泥まみれになって瓦礫を拾う僧侶もいます。
その姿に、タイやスリランカの僧侶は驚嘆するといいます。

この国には、私たちと同じ目線で
悩み・苦しんでくれる僧侶(=聖)がいます。
その姿は、王子の立場を棄て城を出て、
路傍で苦しむ人々の話をひとつひとつ聴いていった
釈尊に通じます。

私たちに幸福感が足りない、本当の理由

昭和の頃の日本。
21世紀への希望にあふれ、
成長している活気に充ち、
自然と人口が増え、
そして老後や死ぬときのお金の心配など、まったくいらない国でした。

50年前。
預貯金など100万円もなくても、
陽だまりの庭に面した縁側で
みかんをほおばりながら鳥の声をきき
ニコニコ笑って過ごせる老後がありました。

どうすれば、半世紀前の幸せな老後に戻れるのでしょう?

信仰していない寺との訣別。

そして

慕える僧侶=聖(ひじり)を発見していくこと

が解決の道です。

ミラクルの国=日本が、
ふたたび〝豊かな精神状態になれる国〟へと復活するには?
そうなるための近道を、この本に書きました。

聖の社会学 (イースト新書)

posted with ヨメレバ

勝桂子 イースト・プレス 2017-04-09

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「失われし20年」といわれる長期デフレで、日本が失ったものは経済的利益だけ。

じつは過去20年の間に私たちは、ニッポンの価値を取り戻している!!!

なかなか表面化しないその精神的復活を支えるカギこそが、聖(ひじり)。

先祖を大事にしたい人
お寺をもっと活用してみたい人
最近の日本はどこかおかしいと感じている人に、
ぜひ読んでいただきたいのです。

とある会合で、とある新著が早速話題になったらしい。なかなかの衝撃度だったようだ。
読むときは覚悟して読むとしよう。(前著『いいお坊さん ひどいお坊さん』読者僧侶より)

(読者のかたがたより)

僧侶側と一般の人側の双方の視点を考慮して書かれた『聖の社会学』は、僧侶はもちろん、寺庭婦人さん、葬送や石材関係の方々、そして法事や葬儀、お寺との付き合いに悩む一般の方にもオススメの本。

聖の意味をググったら語源は、非を知る、かもしれないとでてきた!!!
聖=宗教ではなく、もともとの非を知る者という意味で著者は「聖」という言葉を使ったのか。
語源のところで!マークを使うほど、私は聖性への意識が低くなっていたことに気づきました。

出家者であらずとも、出家者や僧侶以上の仏道を歩まれているかた(そのつもりがなくとも)の存在には強く心打たれます。仏教、釈尊の教えや道元の教えは僧侶の専有物ではないし、著者の言う聖性も、これまた僧侶の専有物ではないのでしょう。

「なぜ、僧侶の法話は上滑りするのか」「伝統仏教はカルト化している」などなど、大変衝撃的なタイトルが並んでいました。
いったいどれほど僧侶を厳しく追及する本なのかとドキドキしましたが、内容は僧侶を批判するものなどではなく、日本仏教の特殊性(特質)を一般の人によく理解していただき、お互いにとってどのような関係が望ましいかを問いかけるものでした。

私たち僧侶は学んできた宗派の教えやしきたりを大切に思うあまり、お寺を訪ねてくる人の精神的、経済的状況を深く考えずに、一方的に押し付けてしまうことがあります。
僧侶としてゆずれないことであっても、目の前の人がそれを「今は受け取れない」状況にあるかもしれないことを想像し、まず柔軟に目の前のその人の心のうちを聴かせていただくことの大切さを教えられたように思います。

菩提寺を慕えるお寺へと変えていく

墓じまいも僧侶派遣も一般化しつつあり、
お寺を選べない時代ではなくなりました。

これからは、慕える寺を選び、
私たちがお寺という場を育んでいくことも可能なのです。

日本仏教の特性をよく知り、
和尚さんとよく話してみましょう。

残念ながら、
話も通じない(お金の話しかなさらない)ときは縁を切り、

聖を探しに

いきましょう。

この国には案外、多くの聖がいます。

聖の社会学 (イースト新書)

by 公開日:2017年7月3日 更新日: